1467年、応仁の乱が起こる。
応仁の乱とは?
応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の1467年(応仁元年)に起こり、1478年(文明9年)までの約11年間にわたって続いた内乱(ないらん)。応仁の乱で、主要な戦場となった京都全域は、壊滅的(かいめつてき)な被害を受けて荒廃(こうはい)した。すべての地域ば焼失(しょうしつ)し、激戦地(げきせんち)となった相国寺(しょうこくじ)、天龍寺(てんりゅうじ)・清水寺(きよみずでら)などは全焼(ぜんしょう)した。
応仁の乱の原因は?
応仁の乱
出典:https://stat.ameba.jp/user_images/20141111/00/matsuriouji/d3/80/j/o0480024013125569654.jpg
応仁の乱の原因は、もともとは有力守護大名であった畠山家(はたけやまけ)の家督争い(かとくあらそい)だった。
が、そこに将軍家のお世継ぎ問題や細川家と山名家の権力争いが加わったことで、一気に複雑化した。
畠山家のお家騒動
畠山家で、畠山持国(はたけやまもちくに)がいきなり跡継ぎを畠山持富(はたけやまもちとみ)から畠山義就(はたけたまよしなり)に変更したことで、お家騒動が勃発(ぼっはつ)した。
将軍足利義政(あしかがよしまさ)は、畠山義就(はたけやまよしなり)を支持していたのだが、細川勝元(ほそかわかつもと)が持富の家系の方を優先して最終的に畠山政長(はたけやままさなが)を畠山家の当主(とうしゅ)にさせてしまう。
もちろん、義就(よしなり)からすれば、これは納得できないことだ。
義就は、当時細川勝元と仲が悪くなっていた山名宗全(やまなそうぜん)に接近し、文正の政変(ぶんしょうのせいへん)のどさくさに紛れ、なんとか畠山家の当主に返り咲いた。そのためいつしか、義就(よしなり)は山名宗全側、政長(まさなが)は細川勝元側につくことになり、この畠山家の争いが、応仁の乱の導火線(どうかせん)となった。
将軍家の後継者争い
室町幕府8代目将軍・足利義政(あしかがよしまさ)とその正室(せいしつ)・日野富子(ひのとみこ)は、子宝(こだから)に恵まれなかった。
後継者となるお世継ぎがいなければ、室町幕府は滅亡(めつぼう)してしまう。
そこで足利義正は、出家(しゅっけ)していた弟・義視(よしみ)を養子(ようし)として迎え、後継者(こうけいしゃ)にすることを決めた。
これで問題は解決したかに見えたが、寛正6年(1465年)に義政と富子の間に息子・義尚(よしひさ)が生まれたことで事態は一変する。
富子は、息子義尚(よしひさ)に跡継ぎを譲ることを望み、義政も「義尚を9代目将軍とする」と、お世継ぎの変更を申し出る。
こうなると当然、それまで跡継ぎとされていた義視(よしみ)はこれに反対する。
かくして、将軍家は「義視派」と「義尚派」の2派に分かれて、応仁の乱へと発展していく。
応仁の乱の結果は?
応仁の乱による11年間にわたる戦いは、両軍ボロボロの状態で引き分けに終わった。しかしながら、主要な戦場となった京都全域は、壊滅的(かいめつてき)な被害を受けて荒廃(こうはい)した。
まず、応仁の乱によって、上京区を始めすべての地域ば焼失(しょうしつ)した。
花の御所はおろか、天皇がお住まいになっている御所も燃えてしまい、天皇が一時避難を余儀(よぎ)なくされた。
さらには、戦いの激戦地(げきせんち)となった相国寺(しょうこくじ)を始めとして、天龍寺(てんりゅうじ)・清水寺(きよみずでら)・伏見稲荷大社(ふしみいなりじんじゃ)・金閣(きんかく)・仁和寺(にんなじ)などは全焼(ぜんしょう)。
京都の街は、兵士たちの略奪行為(りゃくだつこうい)によって、公家(くげ)や町人たちが京都から脱出するほど悲惨な状態だったという。
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